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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

書く女 10

 男は、私の隣りに座った。私たちは、グラスをカチリと合わせ、乾杯をした。男が小声で「失恋記念日に乾杯」と言っているのが聞こえた。私は赤くなる頬をごまかすために、またギムレットを一息で飲んだ。
「お酒、強いんですね」
 男が微笑みながら、言う。間近で見ると、無精ひげがあっても、ややたれ目で鼻筋の通った顔立ちは、かなり私の好みだった。
 私は必死に過去に読んだ恋愛小説――特に、森瑶子の小説のヒロインを思い出そうとしていた。とはいえ、森瑶子の小説は、短編を一本しか読んだことがない。高級リゾート地、上品なカクテル、黒いドレス、洒落た会話で戯れる男と女――私とは世界が違いすぎて、のめりこむことができなかったのだ。
 とりあえず、マルガリータでも頼もうかと思ったが、テキーラはあまり好きではないので、当初の予定通りトム・コリンズを頼んで飲んだ。
 男は、そんな私を懐かしそうな笑顔で見つめている。
「……あなたも、失恋されたんですか?」
 見られるのが恥ずかしくて、とりあえず会話をふってみた。
「ええ、まあ。そんな感じです」
 男は静かにハーパーを啜った。やはり、あの一杯のギムレットは、何か下心あってのものなのだろうか。
 でも、それでもいいじゃない。酔った頭の中で、声が聞こえたたような気がした。
 私は、もちろん、今まで行きずりの男と寝たことなどない。でも、この男と寝てしまえば、自分の殻を打ち破り、私を捨てていった彼のことも、きれいさっぱり忘れられるのではないか。――それは、愛ではなく、打算だけど。
 男は、ぽつぽつと自分の失った恋のことを語り始めた。彼女との出会い、彼女との結婚――結婚した相手に、いまだに恋という表現を臆面もなく使えるなんて、少し羨ましい気がした。そして、はっきりとは言わないが何か不幸な出来事があって、彼から離れていった彼女。
 私は男の話を聞きながら、マティーニとドライマティーニとギブソンとジン・フィズとシンガポールスリングとホワイトレディを飲んだ。これでこの店のジンベースのカクテルは制覇したことになる。
 充分酔いもまわったし、そろそろ場所を移して、さっさとけりをつけたくなってきた。じりじりしながら話を聞いている私の耳に、彼の一言が突き刺さった。
「――結局、僕は別れを選ぶことにしたんです。それが、これ以上誰も傷つかない、最良の方法ですから」
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 突然、ラジオの周波数がピタリと合ったように、頭の中に三十年近く昔の伝説のアイドルの歌が鳴り響く。
 ちょっと待って プレイバック プレイバック 今の言葉 プレイバック
 私がその部分しか知らないせいだろうか。同じ歌詞ばかりが無限にリピートされる。私は脳内ラジオに負けないよう、声を張り上げた。
「ちょっと待って! 最良の方法って、何? 誰も傷つかない別れなんて、あるわけないでしょうが。私には、あなたがとても傷ついているように見えますけど?」
 訥々と彼女の思い出を語り、そのことに満足を覚えていたらしい男は、突然の反論に驚いたように私を見た。マスターも、カウンターの中からびっくりしたような目を向けている。
「まさか、傷ついたふりして、あわよくば新しい出会いがあるかもと思ってここに来たわけじゃないんでしょう?」
 ちょっと待って プレイバック プレイバック 今の言葉 プレイバック
「彼女と暮らした家にいるのがつらかったから、だからここに来たんでしょう? それなのに、誰も傷つかずに済むから別れるなんて、屁理屈で無理やり自分を納得させているだけです」
 ちょっと待って プレイバック プレイバック 今の言葉 プレイバック
「彼女ともう一度、きちんと話し合ってください。憎み合って別れるというんじゃないのなら、彼女と向き合って、きちんと話し合うべきです!」
 そう言いきると、私は荒い息をついた。頬は、きっと真っ赤に染まっている。でも、言い訳の必要はない。私は酔っている!
 男は呆気にとられた目で私を見ていたが、やがて微笑をもらした。
「そういう生真面目なところ、幸恵にそっくりだよ。……そうだよな、話し合わなくっちゃな。よし、今度こそあいつの洗脳を解いてやるぞ! アドバイス、ありがとう」
 そう言って微笑んだ、彼のたれた目がますます好みだった。――もったいないことをしてしまったようだ。洗脳が何のことなのかは、わからなかったが。

 彼が帰ってしまうと、客は、また私一人になってしまった。
 ちょっと待って プレイバック プレイバック 今の言葉 プレイバック
 脳内ラジオは、まだ止まない。
 私は、彼のグラスと、四分の一ほど残っているボトルを自分のほうに引き寄せた。微かに良心が疼いたが、このくらいはアドバイス料としていただいてもいいだろう。今日は良心も酔っ払わせてやる。
 ちょっと待って プレイバック プレイバック 今の言葉 プレイバック
 彼の策略に乗ったふりして、話し合いもせずに別れを決めたのは、私。
あわよくば、なんて新しい出会いを期待していたのも、私。
「すっぱいぶどう」なんて屁理屈で、自分を納得させていたのも、私。
 最低。かっこ悪すぎ。
 まったく、よくも厚かましくアドバイスなんてできたものだ。あれは全部、自分自身に言わなければいけない言葉だろうに。
 ちょっと待って プレイバック プレイバック 今の言葉 プレイバック
 ……一度くらい、彼ときちんと話し合ったほうがいいのかもしれない。たぶん、元に戻ることはできないだろうけど。それでも、きちんとけじめをつけたほうがいい。
 私は、グラスに注いだハーパーを一口飲んだ。苦い。家で飲んでいるフォアローゼスとの違いは、よくわからない。
 ハーパーと、フォアローゼスの違いを表現できる言葉を紡ぎ出したい、と思った。
 家で飲んだあの酒と、今飲んでいるこの酒の苦さの違いを表現できる文章を生み出したい、と思った。
 グラスを空にすると、私はもう一杯注いだ。
 いい小説を書こう、と唐突に思った。ほんのりと悲しくおかしく、そして、読んだあとに微かな希望が残るような小説。
 今のかっこ悪い私も、いつかそういう小説を書くために必要な経験値になるはずだから。
 また空になったグラスに、私は最後のハーパーを注いだ。
 だんだん、闘争心が燃えてくる。
 えこひいきするハゲ課長、甘え上手なお嬢様、私に背を向けていった男たち、噂好きな女たち。
 あんたたちみんな、今に私の書いた小説で泣かせてやるんだから! ハンカチ用意して待っていなさい!
 脳内ラジオは、いつの間にか止んでいた。

「――お客さん、申し訳ありません。そろそろ閉店しますので」
 顔を上げると、マスターが不安そうな顔で私を見ていた。私は、マスターを初めて見る生き物のように観察した。
 ふさふさした白い髪。中東の人のような立派な鼻ひげ。黒い蝶ネクタイに、赤いタータンチェックのベスト。絵に描いたような、「バーのマスター」だ。
 私なら、この人に、どんな物語を与えることができるだろう。



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